ヨイド純福音教会 日本語礼拝部

Yoido Full Gospel Church Japanese Ministry

主の御名で歓迎します 자세히보기

感謝で始める365日 372

3月11日

この世を支配する人生 「起きよ。輝け。まことに、あなたの光が来る。主の栄光があなたの上に輝く。(イザ60:1) 人間を創造された神様は彼らに祝福を与え「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」(創1:28)と言われました。今日この地で、神様の御言葉に従って生み、増え、地を支配することは何でしょうか?この質問にオーウェン・ストラッチャン博士はこう答えます。「地を支配するという概念は、アダムの時代を越えて、現代にまで拡大されるべきだ。私たちの罪に打ち勝ち、霊的な家族と実際の家族を作り、霊性を訓練し、神のかたちの所有者として熱心に働き、敬虔な人生を営むことも地を支配することである。… 私たちはキリストの栄光のために生きるしかない存在となってしまった人々だ。… 祈り、聖霊様に拠り頼んで力を受けて働く時間が、今や始まったのだ!」 私たちは神..

3月10日

マシュー・ヘンリ牧師先生の感謝 私はこの口で 大いに主に感謝し 多くの人々のただ中で 主を賛美します。主が貧しい人の右に立ち 死を宣告する者たちから彼を救われるからです。(詩109:30-31) ある日、マシュー・ヘンリ牧師先生はロンドンの路地で強盗に遭い、財布を奪われました。持っているものをすべてなくし、血を流しながら辛うじて家に帰ってきたのですが、その日の日記でこのように感謝しました。「第一に、今まで強盗に遭ったことがなくて感謝します。第二に、彼らが持っていったものが、私のいのちではなく、財布であることを感謝します。第三に、全部奪われましたが、大した金額じゃなくて感謝します。第四に、私が強盗をしたのではなく、強盗に遭ったことを感謝します。」 詩篇109篇には、敵によるダビデの苦しみがよく表れています。彼は苦し過ぎて、敵への怒りを神様の御前で吐き出すほどでした(詩109:6-19)。..

3月9日

神の子どもとなる特権 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(ヨハ1:14) ヨハネによる福音書は、クリスチャンについてこう言います。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」(ヨハ1:12-13)。この御言葉は私たちがイエス様を信じることで、私たちの身分が変わったことを教えてくれます。イエス様を信じる前、私たちは神様を知らずに、神様に服従しない人々でした。このような私たちを神様は愛され、イエス様を信じるという理由一つだけで、神の子どもとなる特権を与えられました。ところが、新しい身分には新しい..

3月8日

小さい者にしたこと まことに、あなたがたに言います。わたしの弟子だからということで、この小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人は、決して報いを失うことがありません。」(マタ10:42) 雇用型ソーシャルイノベーション企業「ヒズビーンス(HISBEANS)」のイム・ジョンテク代表は、大学時代、事業で成功してお金を儲けることで頭がいっぱいでした。ところが、香港で開かれた「アジア大学生創業交流展」に参加したことを契機に、考えが変わりました。自分と同じ年頃の学生たちが、世界と他人のために悩む姿を見て、クリスチャンとして恥ずかしく感じ、進路について真剣に考えるようになったのです。そのとき、主がくださった御言葉が「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。」(マタ25:40)でした。そのときから、彼は最も疎外され、苦しんでいる人..

3月7日

振り返ってみよう すると、イエスは両親に言われた。「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」(ルカ2:49) ヨセフとマリアはイエス様が12歳になられたとき、イエス様と一緒に過越の祭りを守るためにエルサレムに上りました。祭りをすべて終えてから、ヨセフとマリアはエルサレムにイエス様がとどまっておられることに気づかずに、帰路につきました。しばらくしてイエス様がおられないことを気づき、様々な人に尋ね回って、三日後ようやくイエス様を見つけます。 私たちにもこのような姿があるかどうか、振り返ってみましょう。イエス様なしに、イエス様を見失ったまま人生の道を歩きながらも、どこでイエス様を見失ったのかさえ気づかないままいるのではないか、振り返ってみましょう。ヨセフとマリアが、イエス様を見失っても気づかなかったように、私たちの人生におい..