ヨイド純福音教会 日本語礼拝部

Yoido Full Gospel Church Japanese Ministry

主の御名で歓迎します 자세히보기

전체 글 495

2022-03-29

訓練と感謝 訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。(ヘブ12:7) へブル人への手紙は神様の訓練を受けながらも、その意味が分からずに戸惑うクリスチャンに、訓練の意味を明かしています。へブル人への手紙は「もしあなたがたが、すべての子が受けている訓練を受けていないとしたら、私生児であって、本当の子ではありません。」(ヘブ12:8)と言われます。ここで「私生児」とは奴隷や妾から生まれた子です。当時のローマ社会で私生児として生れた人は、父から遺産を相続できないのはもちろん、教育も関心も、ましてや訓練すら受けられない身分だったのです。 もし、クリスチャンが間違った生き方をしているのに、神様の訓練がないなら、その人は神様の子ではなく、神の御国を受け継ぐこともできません。反対に、訓練を受けるということは、神様の子であることを示す証拠..

2022-03-28

感謝は信仰の結果です ですから、皆さん、元気を出しなさい。私は神を信じています。私に語られたことは、そのとおりになるのです。(使27:25) ポジティブ心理学の創始者と言えるマーティン・セリグマンは「出来事がすなわち結果ではなく、出来事と結果との間には自身の信仰というつながりがある。」と言いました。つまり、自分に起きた出来事をどう解釈して、どんな意味を付与するかによって出来事に対する反応が異なるということです。どんな信仰を持っているかによって、同じ出来事に対しても反応が異なることがあります。 主が人生の羊飼いになられることを信じる人は、死の陰の谷を歩んでも、主が顧みてくださるから恐れることはないと告白します。聖霊様の導きと助けを信じる人は、様々な試練や逆境がやってきても、それらすべてのことがともに働いて益となると宣言します。自分に向けられた神様の御計画を信じる人は、広い海の中で暴風に遭..

2022-03-27 주일설교요약(이영훈 목사님)

2022.03.27 2、3、4部 ▷ 招詩 (詩篇13:3~6) ▷ 賛美歌543番 (旧342番) 苦難さえも喜んでいます (ローマ人への手紙 5:3~5) この世の中で苦難に遭わなかった人は誰一人いません。誰にでも大小の苦難が予告なしに来ます。イエス様を信じる私たちにとって苦難は、単純に災いではなく、もっと良い未来へ進ませる祝福の道具です。私たちはこのような苦難が近づいてくる時、どのような姿勢を持って迎えたらよいのでしょうか。 1.苦難さえも喜んでいます 成熟した信仰人は苦難の中でも喜ぶ人生を生きることができます(ローマ5:3a)。人は予想できなかった苦難に遭う時、落胆し挫折します。神様の子どもになった私たちには世に打ち勝ったイエス様がいつもともにおられます(ヨハネ16:33)。それゆえどのような苦難の瞬間が迫って来ても諦めず、主だけに委ねて、絶対肯定の姿勢で進んで行かなければな..

2022-03-27

空っぽの袋は立っていられない しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。(Ⅰペテ2:9) 現代を三無時代と言います。無意味、無節制、無神経の時代であるからです。外見的には華やかで豊かに見えますが、実際はその中にあるべき重要なものが抜けている時代です。空っぽの袋は立っていられません。中身がないものは、抜け殻に過ぎず、無価値なだけです。人間と人生も同じです。そこに中身があるかどうかが重要です。それもどんな中身かが重要です。高価なブランドのカバンでもゴミがいっぱい入っているなら、ゴミのカバンになります。しかし、平凡なカバンでも宝石が入っているなら、それは宝石のカバンになります。 現代の人々が彷徨いながら、不幸を感じる最も大きな理由は、..

2022-03-26

主が私を呼んでくださったとき 神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。(ロマ8:30) わたしがその名を呼ぶまでは あなたはただ ひとつの仕草にすぎなかった。 わたしがその名を呼んだとき あなたはわたしのもとで 花になった。 詩人キム・チュンスの「花」という詩の一部です。ただ小さな仕草にすぎなかったのに、詩人がその名を呼んだとき、彼のもとで初めて花になったというこの詩から、私たちを呼んでくださった神様の愛を思い浮かべます。神様が私たちを呼んでくださるまで、私たちは人生の意味も価値も分からない、空しい仕草にすぎませんでした。神様はそんな私たちを呼んでくださり、私たちを尊い花のごとく重んじられ、キリストによって与えられる義の衣を着せてくださいました。このように私たちを呼んでくださる主の麗しい御声に、どうして..